四季に恵まれた越前藩国の6月。 それは、恵みの雨の季節だ。 連日、雨が降っていた。 おひさまが出たら、寮に戻って自分の分とついでに同室のランクの分の布団を干そうと決めているクレージュは、障子の枠に切り取られた空を眺めてため息をついた。 正直に言えば、雨は好きではない。 藩王に拾われてこの国に来るまで、つまりは戦で焼け出されてひとりでいた間、雨に体温を奪われる事と、長雨のせいでせっかく必死に集めたわずかな食糧が傷む事は、まさに死活問題だったからだ。 なにより、火薬と血の匂いのする雨は、家族も仲間も失った時の恐怖を嫌でも思い出させる。 しかし今は幸いなことに、火薬の匂いも血の匂いも混じらない潤いに満ちた空気だ。 鋭敏な鼻をくん、と鳴らして、クレージュは少しほほえんだ。 「どうした?百面相をして」 からり、と襖をあけて、部屋の主が戻ってくる。 見れば、手にはまだ青く瑞々しい稲穂。 「あ、おかえりなさいませ、お館さま。…あの、それは?」 「これか?なに、お前にはさして面白い物でもないぞ。酒を醸すのに向いたものをと品種改良した、新種の稲の若穂だ。」 このクレージュ、酒にはからきし弱い。 一度、酒宴の席で戯れに勧められた事があるが、それからの記憶すらない。…それ以来、なぜか一切酒を勧められることはなくなったが。 閑話休題。 「クレージュ、お前も見てくるといい。この季節のわが国は、実に豊かに見えるぞ」 そう楽しげに言いながら、藩王は手にした稲を部屋にあった一輪挿しに活け、日当たりよい場所に飾る。そして、ついでに毎日の水換えをクレージュに命じた。 クレージュは無論、微笑んでそれを受ける。 「はい、了解です、お館さま。…せっかくのお勧めですし、ボクは農地の見回りに出かけて参りますね」 うむ、と見送る藩王に一礼して、クレージュは外へと向かう。 鈍色の空と、止まない雨。 見上げた瞬間戻ってきそうになる過去の自分を、眼を閉じて押し殺す。 (だいじょうぶ、みんな優しい。だから、優しくしてもらったぶん強くなるって、お館さまに出逢ったあの時にボクは決めただろう?) 閉じて開いたその視界の端、クレージュは、くるくると踊るものに気づいた。 眼を凝らせばそれは、鮮やかな空色のパラソル。 「あら、クレージュ君じゃない、どこに行くの?」 同じ色の長靴も身につけた、刀岐乃が笑う。 『雨の日のおでかけスタイル』とファッション誌にでも投稿したくなるような、彼女の軽やかな愛らしさに、クレージュも微笑んだ。 「水田を見に行くところです、稲を見に」 「稲を?」 意外な言葉を聞いた、と言わんばかりに、刀岐乃の右の犬耳がひょこりと動く。 「この国の6月は初めてなんです、ボク」 そう言うと、納得したように笑った刀岐乃は、クレージュに傘を差しかけた。 「はい。長靴はちょっとサイズが合わないだろうから、傘だけ貸してあげるね」 「ありがとうございます、ときのさま」 笑みを返して、ふと気づく。彼女の反対の手には、紫陽花の花と葉。 「あぁ、これ?ほら、カタツムリだよ」 差し出した紫陽花の葉の上に、まるまるとしたカタツムリが一匹。 「あのね」 いたずらっこの笑みを浮かべて、犬耳の美少女はクレージュ耳元にひそひそと口を寄せる。 「これをね、朝にランクがおまぬけに寝てる時に、おでこに乗っけてやるの」 すこし背伸びをして内緒話をする少女と少年、とはなかなか絵になる構図だが、内容は悪ガキの悪だくみである。 「それで、こう言ってやるの。『もうされたくなかったら、早寝早起きすることね!』って。…なんだか最近、不摂生って言ってたし…って!あの!別にあいつを心配して言ってたりするじゃないからね!」 悪だくみをする恋する乙女が、急に耳元で声のボリュームを上げたので、少しばかりクラクラしなががらクレージュは「うん、刀岐乃さまはやっぱりかわいいね」と心からの笑顔で言った。 「やだ!クレージュ君だってかわいいじゃない」 と刀岐乃も笑って、クレージュの頭を撫でた。 (背が伸びたなぁ、この子) クレージュがこの国にきて数ヶ月。 刀岐乃より小さかった少年は、いつの間にか刀岐乃より少しだけ大きくなっていた。 「じゃあ、行ってきますね」 「行ってらっしゃい」 手を振って、緩くまとった藍染の着流しに空色の傘という出で立ちで、クレージュは歩き始めた。 成長途上の体は、いかに細身といえども手持ちの服のサイズを変えさせる。 ただでさえ持ち服の少なかったクレージュがそれをwishに相談すると、与えられたのは、簡単にサイズ調整のきく、この国の伝統服だったのだ。 蛙が鳴く声。 しとしととふる雨音。 ぬるい雨のしずくは、寒さを感じさせないので、逆に心地よくさえ感じた。 あわく雨に輪郭をにじませる国の風景を眺めながら、ゆっくりと歩く。 覚えているあの寒さも恐怖も、包み込み溶かしていくやさしい雨音に感謝して、そっと空を見上げる。 やがて、 田園にたどりついた少年が眼にするものは、 雲の切れ間から射す光に照らされた、一面の緑の絨毯。 水の粒をきらきらと弾き、 さやさやとそよぐ、 やさしくも強い豊穣の景色だ。 荒らされぬ田畑 まさしくそれは、平和の象徴。 「秋が、待ち遠しいね」 そう、田園に誇らかに満ちる若穂に語りかけて、少年は雨をうけとめて両手を広げた。 守られることに感謝し応えるのではなく、 愛しい美しいこの国の、景色と人々をまもる為に、『自分』は『何を』なせるか。 クレージュ少年がそれを真剣に考えるようになったのは、誰も気に止めないような、このそぞろ歩き後からである。